虹色のベトナム語 

 

会社勤めをしていた頃、いろいろな国へ行きました。中近東、ヨーロッパ、南米、東南アジア…。だいたいは英語が通じました。マレーシアにいた時なんか、中国人が多かったので中国語を習ういい機会だったのに、まぁ、商店のおばちゃんからタクシーの運ちゃんまでびっくりするほど英語、英語…。しかし、トルコ、イラン、チリあたりではむずかしかったですね。事務所スタッフとの話やお得意さんとの折衝など、直接仕事に関係ある場合は英語でOKです。しかし、町へ買い出しに行ったり、遊びに行ったりすると全くダメ。仕方なくトータル100ぐらいの単語を覚えて、とっかえひっかえしながら、なんとか用を足したものです。特にトルコの時は若かったし、最初の赴任地でもあったのでずいぶん張り切って、宿舎で文法書を読みながら結構勉強しました。だから今でも旅行会話ぐらいならなんとか…?

 

その点、残念ながらここベトナムも英語が通じにくい方でしょう。皆さんが観光にいらっしゃる場合ならともかく、言葉が分からないと生活の上で大変苦労します。私たちは駐在員ではありませんから、ローカルスタッフに助けてもらったり、外出に会社の車を使ったりなどとはもはや無縁。市場の買い物からバス通勤、料理の注文まで全部ベトナム語。しかし、ベトナム語について一言で言えば、ネックは発音だけ。日本、朝鮮、ベトナムは中国のお隣にあって太古の昔から強い影響を受けてきましたから、それぞれの言葉も漢語的要素を共有しており、その意味では日本人にとってベトナム語は勉強しやすいと言えるのではないでしょうか。

17世紀中頃、ヨーロッパのキリスト教宣教師たちが布教のために工夫し、19世紀末以降フランスが乗り出してくると、植民地支配の目的で普及強化されたローマ字利用の文字が現在使われている正書法です。アジアでも北の朝鮮や南のタイ、カンボジア、ビルマなどでは漢字でもローマ字でもない、固有の文字を使っていますので、ローマ字のベトナム語は日本人に馴染みやすい。もっともローマ字の上や下に、母音の区別やアクセントを示すための独特の記号を多用しているので、街の看板を見て、まるで発音記号を読んでいるようだと言った人がいました。確かにローマ字に従ってそのまま読んでも、ベトナム人には全く通じないでしょう。

 

文法もこれまたやさしい。日本語のように「てにをは」は使わない。昔、中学で初めて五段活用とか、上一、下一とか、カ変だのサ変だのと面食らったことがありましたが、そんな活用もない。また英語のgo, went, goneにも閉口しましたよね。ベトナム語は主語、動詞、目的語の順に言葉を置くだけでいいんです。つまり、「私、読む、新聞」、「あなた、です、日本人」とか、「彼女、背、高い」などというわけです。そして語彙については初めに書いたように漢語からの類推がかなり有効です。例えば「学生」はhoc sinh、「独立」はdoc lap、「注意」はchu yなどです。

 

そんな中で、一番厄介なのが発音でしょう。こればかりは大方の日本人が苦労しているようです。何せ、母音が6通りにも変化して、意味が全く違ってしまうのです。それも単純に上げたり下げたりだけでなく、一度下げたのを上げたり、喉を圧迫するような詰まった音を出したりするので、当のベトナム人も「質問する時の調子」だとか「転んだ調子」などとへんてこな名前をつけています。例えば、「マー」を高く平らに発音すれば「お化け」、低くて平らなら「しかし」、驚いたときの「ええっ!」のように中間の音から高い音に一気に上げれば「頬」、「あ~あ、やんなっちゃった」の「あ~あ」のように、いったん下げて、最後にちょっとしゃくり上げたのが「お墓」、おなかを机の角にぶつけた時の「うっ!」のように低く詰まらせて、その後急に高く開放させるのが「馬」、また「うっ!」とうなったままにしておけば「苗」という具合です。

 

そしてこれをさらに複雑にしてるのが地方差です。ベトナムは南北に1700キロもある細長い国ですから、北部・中部・南部の差がかなり大きい。特に中部の言葉は分かりにくいと言われています。私も標準語とされているハノイ方言を習ったため、オーバーに言えば、ハノイにしか住めないようなものです。

 

しかし、私はベトナム語を聞いて、本当に美しいと思います。世間で言われているフランス語や中国語なんか全然メじゃない。世界一だと思います。夕暮れ時、とある湖の畔で若者が詩を朗読している場面に出会えば…、韻を踏みながら独特な抑揚を伴った節回しに、文字通り聞き惚れてしまうでしょう。

 

ベトナム人に日本語を教える以上、私もベトナム語に苦労しなくてはならないのでしょう。往々にして、分からなくても分かったような顔をして、「ふむふむ」とうなずきながら、にっこり笑わなくてはならないのが本当に苦しいところです。

 

 

ちなみにどうぞインターネットで「ベトナムの歌」とでも入力し、動画で聞いてください。そうすれば、目に美しいのが虹、耳に美しいのがベトナム語とお分かりになるでしょう。