藍より青し
首都ハノイのほぼ真西。陸路で約500キロ離れたところにディエンビエンフーがあります。プロペラ機で1時間ちょっと、バスだと12時間ぐらい。ラオス国境にほど近く、四方を山に囲まれた盆地です。ベトナム戦争と呼ばれるアメリカとの戦争(第二次インドシナ戦争)の前の戦争、すなわちフランスからの独立を勝ち取った第一次インドシナ戦争で天下分け目の決戦が行われたところです。
ディエンビエンフーは、ハノイを中心とする紅河デルタ地帯からラオス北部へ入る街道沿いの戦略上の要地で、ホー・チ・ミン率いるベトナム軍は、ここを潰そうとするフランス軍と衝突を繰り返していました。フランス側は空輸作戦により要塞を築き、戦力を強化しましたが、ベトナム軍は昼夜分かたずの人海戦術で大砲、ロケット砲、対空火器を山頂に引き上げて要塞を見下ろす位置に設置し、密かに要塞を包囲してしまいました。1954年3月から5月までの間に激戦を展開、ついにフランス軍は5000人余の死傷者を出して降伏しました。
この戦闘を指揮したのがベトナム救国の英雄で、西側諸国から「赤いナポレオン」と呼ばれた鬼才ヴォ・グエン・ザップ大将です。2013年10月、102歳で亡くなりました。私はハノイにある大将の邸宅に弔問に行きましたが、驚いたことにその邸宅を取り囲む通り一帯を市民が二重三重の行列を作りながら、静かに大将とのお別れの順番を待っていました。「驚いたことに」と記したのは、よく言えば自由闊達、普通の日本語でいえば秩序なんてあってなきが如しのベトナム人がよくもじっと行列を作っていたなということです。それだけ敬愛する大将への深い悲しみに溢れていたのでしょう。
さて、本論はここからです。そのディエンビエンフーから上京し、貿易大学に通っていた一人の学生がいました。名前をダン・ミイ・ハインと言います。私は2年生と3年生の時に担当しましたが、その当時は田舎から出てきた素朴な高校生といった感じでした。
まあ、そのようなへんぴな地方であるため、ハノイの標準語とは違う独特の方言が話されているようなのですね。ある時、彼女が教員室に来て、私に頼むんです。
「先生、私は日本語の発音がおかしいです。聞いて直してくれませんか。」 「そうか、どんな風におかしいんだ?」 「『つ』と『ちゅ』の区別ができないんです。」
確かにそのとおり。「つき」が「ちゅき」、「はつおん」が「はちゅおん」、「せいかつ」が「せいかちゅ」といった具合です。日本語を話す場合、単語を並べているわけではありません。文の中での一語一語ですから、「つき」が「ちゅき」でも通じないわけじゃあない。しかし、いかにも赤ちゃんぽい。本人からの依頼ですから、早速その日から矯正練習を始めました。空いている教室に入って、教科書を出させ、短い段落ごとに区切って私が読み、彼女に読ませました。「ちゅき」に限らず、発音、アクセント、イントネーションなど不自然でベトナム語臭さが抜けない部分を練習すること30分。 「じゃあ、今日はここまで。家でも練習すること」と言って、帰します。
次の日、授業を全部終えて教員室に戻り、同僚の先生方としばし談笑しておりますと、ミイ・ハインがそっと扉を開けて、「鷹野先生…」「おお、来たか。どうお? 練習した?」「はい、練習しましたから、先生聞いてください。」と、そこで前日の復習。まあ、あまり変わりない。発音なんてものは数学や理科と違って理屈もあるかもしれないが、やはり体感として覚え、会得するよりほかない。教科書の続きの部分を聞かせ、読ませて、練習練習。「じゃあ、今日はここまで。家でも練習すること。」
そして次の日も、「鷹野先生…」「おお、来たか。どうお? 練習した?」 「はい、練習しましたから、先生聞いてください。」
そしてまた次の日も「鷹野先生…」、その次の日も…。ミイ・ハインは大事な学生だが、それは彼女だけじゃない。受持ち6クラスでかれこれ200人ぐらいの学生がいる。直接質問に来る者、メールで聞いてくる者。翌日の授業準備もあれば、試験の採点もある。しかし、直してくださいと来れば、後で後でとむげにするわけにはいかない。2週間ぐらい毎日毎日練習したか。結果的には大きく改善とはならなかったけれども、やはり努力の跡が見え、少しは自信をつけたよう。
彼女は鋭敏というより努力型。こつこつ積み上げて、その年の文部科学省留学生に選ばれ、3年生の半ばから1年間、筑波大学に留学しました。ハノイで日本語を学ぶ大学生、高校生のためのスピーチ大会にも参加し、いい結果を残しました。
卒業と同時にベトナムの大手IT企業・エフピーティに入社しましたが、ちょうどその年、この会社が東京支社を開設し、ミイ・ハインは駐在員として派遣されることになりました。オフ・ショアリングといって、日本の会社から設計とかプログラミングとか医療事務とか経理などの仕事を受託し、ベトナムでこれを完成して発注者に送り返す。そのような仕事の受注営業に奮闘していました。貿易大学で対外経済専攻、日本語副専攻の彼女にとってコンピューター関連の仕事は勉強することも多く、かなりの努力を要求されたことでしょう。
その東京支店にもう一人。これもベトナム有数の権威ある大学、ハノイ国家大学を卒業し、早稲田の大学院で学んだ男性社員がいました。共に業務をこなしながら愛情を育み、5年後に結婚した二人。その後、揃ってエフピーティを退職して独立。日本企業向けの情報開発システム会社を作ってしまいました。今では日本での二つの子会社を含む、全体で6社ものグループ会社です。ご主人はベトナム側の社長、ミイ・ハインは日本側の社長。
私は彼女の素晴らしいところは次の三点だと思います。 ① 自分は発音がうまくできないことを自覚していた。 ② 鷹野先生のところへ行けば直してくれると知っていた。 ③ その方法を実行した。
最近ミイ・ハインから連絡がありました。問題にぶち当たったとき、正に私が彼女について考えていたとおりの三点を解決の指針にしているというのです。 ① 自分の弱みを知る。 ② その弱みを克服する方法を考える。 ③ 考えた結果を実行する。
まだ30代半ばの若さですが、青は藍より出でてはるかに青くなってしまいました。