若い目
以下、ハノイ生活を始めたばかりのころの思い出です。
8月17日、新学期開始と同時にハノイ貿易大学で日本語を教えることになりました。この大学の日本語科の前主任教授を知っていたので、その先生を通じて大学に紹介してもらったものです。今のところ週4日、全6クラスを担当します。相手は3年生と2年生。この大学は経済学・商学系の単科大学ですが、海外との関連が強いため、語学教育にたいへん力を入れています。学生は非常に優秀で、中でも日本語科はトップクラスです。
大学が始まる数日前、教師の事前打ち合わせがあり、その場で私の担当する科目の教科書が渡されました。一つは「中・上級者のための速読の日本語」、もう一つは「完全攻略問題集、聴解・聴読解」。前者は新聞記事をはじめ、広告や時刻表、メニューなど生の素材を使って日本語を速く読む練習をする内容で、後者は日本留学試験対策としての聴解を目指すもの。いずれも程度の高い教材です。さて初日、大学までバスで4、50分かかりますので9時半からの始業に対し、余裕を持って8時に家を出ました。校門をくぐると少しずつ緊張が高まってきます。しかし、これまでも楽しくやってきたじゃないか、と自分に言い聞かせますと、口元がほころび、肩の力も抜けて、自然体で教室に向かうことができました。
実は、日本におりましたとき、会社勤めの傍ら少しずつ日本語を教えていました。今ではボートピープルなどという言葉もなくなってしまいましたけれども、かつてベトナム戦争が終わり、南北が統一された後、新しい政治体制や経済政策になじめず、ベトナム南部から小さなボートで命からがら脱出する人々が後を絶ちませんでした。彼らの多くはアメリカやヨーロッパに向かいましたが、日本にも何万人かがやってきたのです。日本政府もその一部を受け入れることにし、品川区、姫路市、大和市に設けられた難民定住促進センターで6か月間のサバイバル教育を施してきました。しかし、とてもそんな短期間に日本語を覚え、仕事を探し、そして子供がいれば学校にやる、病気になれば病院へ行くなどの生活術を身につけることは困難です。そこで、1986年12月、彼らを支えるNGOとしてセンターのあった大和市に「神奈川県インドシナ難民定住援助協会」が生まれたのです。私はその傘下の「かたつむりの会」で8年半日本語教育のお手伝いをしておりました。
次々と学生たちが教室入ってきます。みんな礼儀正しいこと。きちんと朝の挨拶をして着席します。全員が揃ったところで、それでは、と居住まいを正しますと、学生たちはいっせいに起立、礼、「先生、おはようございます!」 総勢30人、20歳の若い目がまっすぐこちらを見つめます。今日は初日ですから、先ずは私を学生たちに知ってもらうこと、学生たちを私が知ること、そしてこれから1年間の進め方についてのオリエンテーションが目標。白板に名前、生年月日を大書し、自己紹介を始めました。生まれと育ち、大昔にベトナム語を勉強したこと、日本の建設会社で働いてきたこと、子供たちも独立し、ようやく夫婦でベトナムへ来られたこと、絵を描いたり、鉄道に乗ったりといった趣味の話、などなど…。そして最後に皆さんと楽しく勉強したいことを述べて、次に学生一人一人に簡単な自己紹介をしてもらいました。自分で言うのも何ですが、この楽しくというのは、文字どおり、楽しく愉快に、なんです。
東京・銀座にある日本基督教団銀座教会の何代か前の牧師に渡辺善太という神学者としても高名な先生がおられました。私が高校生のころ一度だけ説教を聞いたことがあります。お話の内容はすっからかんに忘れてしまいましたが、渡辺先生のこのように話す、という話し方については妙に覚えています。それは、愉快に話す、そしてたくさん笑わせて、大きく開けたその口の中に神様の教えを放り込むんだ、というようなことでした。私もこのことを確かに自分のものとして、日本語を教えるときも決してむずかしい顔をしないで、あははは…と笑わせる、そんな教室を目標にしたいと思っています。
試みの一つとして、授業に日本の愛唱歌・叙情歌と新聞漫画コボちゃんを取り入れることにしました。いずれも勉強する言葉や文章を辞書とか口頭説明だけでなく、歌から拾って耳で覚える、漫画の絵を見て目で覚えるという五感総動員の方法です。今月の歌は「みかんの花咲く丘」。学生にはもちろんはじめての歌ですから、用意した川田正子とコロムビアゆりかご会のテープを繰り返し聞いてもらった後、私のハーモニカを伴奏に合唱! ちらほらそろそろつぶやきながら始まった歌が3番に達するころにはどうにか声がそろうようになりました。そして拍手、拍手、拍手…。
やがて12時、2時間半の授業の終わりにはまた全員起立、礼、「先生、ありがとうございました!」 何か小学校以来のクラス風景を味わいました。思いは余るも力不足、どこまで学生の期待に応えられたか分かりませんが、お互いを知り合う、楽しい雰囲気を作る、1年間の学習目標を理解するとの今日のハードルはなんとかクリアーできたのではないか。若い目に力を与える、若い目から力をもらう、そんな決意を新たにした初日の朝でした。