科挙

国子監での教育は科挙に備えるためのものでした。科挙は高級官僚となって王宮や地方各省に仕える最初の関門です。科挙に合格しなくても学識者としての地位を保つことができ、郷里に戻って教師になる場合も多かったのです。科挙と栄誉は何世紀にもわたって進化を続けました。15世紀の科挙は次のようでした。

 

何段階かの試験が数か月も続きます。先ず、地方試験の郷試が3年ごとに行われます。これに合格した者は筆、筆壺、寝るための敷物を持ってハノイに来て、会試と呼ばれる4種類の試験を受けます。受験者は一つひとつ順を追って次の段階に進まなければなりません。

 

第一は経義と呼ばれ、儒教の古典に関する試験です。4種類の経典から出される4科目のうちから1科目を選びます。更に、孔子以前の古典からの三つの問題のうち一つを選ばなければなりません。最後に、春秋経に関する二問が出されます。

 

第二は制、照、表で、受験者は自ら国王の立場になって国情を論じ、記述しなければなりません。これに合格すると、第三として詩賦から出題される課題について二つの異なる詩を作ります。「詩」は28語からなる詩で、7語ずつ4行に書きます。「賦」は78行の散文詩です。

 

第四は文冊で、四書と過去の王朝史から引用した国が直面する問題に関し、どう対処すべきかを問われます。

 

 

四種類のすべてに合格した者は博士(ティエン・スィ:進士)の称号が与えられ、王宮に招かれて殿試を受けなければなりません。この試験では国王自らが質問を行い、受験者の解答を読み上げます。その後、進士を三つのグループに分け、最高位グループの受験者には特別な栄誉が与えられます。

 

新しい官僚には帽子と服が授けられ、王宮での晩餐会が催されます。その後、勝利を祝う行列をもって郷里へと送られます。そしてそのお返しに、村を挙げての祝宴を催さなければなりません。時には経済的に破綻してしまうほどでした。

 

1442年からハノイで最後の科挙が行われた1779年までの間に2313人に進士号が贈られました。今日、1306人の名前が82基の石碑に見られます。進士は年により3人から61人となっています。また、年齢は16歳から61歳までです。

 

歴史家によると、科挙は現在、国立図書館になっているあたりで行われたようです。「チャン・ティ(場試)」という通りの名前からもそのことがうかがわれます。受験者は少ない時で450人、多い時は6,000人もいたのですから、試験場は広大な敷地だったに違いありません。官僚の国に対する貢献はかなり異なります。徳を積んだ高潔な人物もいれば、単なる役人に過ぎない者もいました。しかし、多くは大変有能でした。数学者や哲学者がいました。政治家や財務家もいました。また、汚職や権利の濫用と戦った者もいました。

文学者や役人は特に目立った存在ではなく、一般的な分野でした。詩人でさえその時代の経済活動に貢献したのです。彼らは中国から収穫量の多いトウモロコシをもたらしました。また、絹や敷物などの機織り技術を改良し、運河などの灌漑システムを発展させました。政治家の多くは詩人でもあったのです。例えば、15世紀のグエン・チャイ(阮)もそうですが、中国侵略軍との戦いで輝かしい勝利を収め、ベトナムの最も偉大な政治家の一人として称えられています。

 

グエン・チャイの詩

政治家・科挙試験官

 

平呉大誥                                           呉國への宣言

惟我大越之國寔爲文獻之邦           我大越は文の邦なり

山川之封域既殊南北之風俗亦異   川も山も風俗も北とは異なる

自趙丁李陳之肇造我国與               趙丁李陳の朝廷が我國を興し

漢唐宋元而各帝一方                      唐宋元と等しい

雖強弱時有不同                              強弱の時あり同じではない 

而豪傑世未嘗乏                             しかし英雄のいない世はない

 

夏日漫成                                        夏の即興詩

傳家舊業只青氈離亂如今命苟金       長い戦いが終わり命だけが残った

浮世百年真似夢人生萬事総関天       この乱世で百年は一夜の夢のようだ  人生万事天が定める

一壺白酒消塵慮半搨清風足午眠       一壺の酒は心痛を流し去る  横になり清風に午睡をすればそれで十分だ

惟有故山心未断何時結屋向梅邊       未だ故山を惟う  梅の木陰にいつまた我家を建てることができるだろうか