五つの庭
第一の庭:入道庭
文廟門から「入道」と呼ばれる第一の庭に進みます。中央通路は黄道(幸運の道)と名付けられています。左右対称の直線通路は儒教の中庸原理に基づく生命の均衡と調和を表しています。道の両側はハスの池で、ガジュマル、プルメリアなどの神聖な木々で飾られています。
「徳」と「才」は知識の奥義に向かう第一の庭から第二の庭にかけてのキーワードです。第一の庭の一番奥にある中央門の左右に小さな門があって、左側には「才達」、右側には「徳成」と書かれています。
この中央門は大中門と呼ばれています。これは単に物理的な大きさを意味するだけではありません。「大中」 は孔子の二人の高弟が著した書物「大学」と「中庸」を指しているのです。この二冊を合わせて中道の偉大さを称えています。
簡素な門の屋根には尾をぴんと跳ね上げた一対の鯉が載っていますが、それぞれ天の霊酒、即ち儒教の霊酒を収めた真ん中の壺に向かって深々と頭を垂れています。鯉は高級官僚への途上にある学生たちを象徴しています。
中国の黄河に「武門(武帝の門)」と呼ばれるアーチ型の岩があります。伝説によれば、陰暦三月の流れの激しい時期にこの岩を越えられた鯉は竜になるという言い伝えがあります。科挙は「武帝の門」と呼ばれ、これに合格した者はその鯉に譬えられます。また別の伝説では、竜になろうとする鯉は千年をかけて三つの滝を越えなければなりません。ここでは鯉は平民を言いますが、地方、県、国王の三段階の試験を経て初めて池に生える草の根から官僚の地位に登ることができるのです。
第二の庭:大中庭
第二の庭の一番奥はクエ・バン・カク(奎文閣)です。これは新しく興ったグエン(阮)朝が王立学校をフエに移した直後に北部の地方王権であったグエン・バン・タイン(阮文誠)が建てたものです。「奎文」とは学問の星座を意味します。(ベトナムで学問の星座と呼ばれる星々は西洋のアンドロメダ座と魚座の一部を結ぶものです。)また「閣」は星座の輝きを映します。形式は独特で、木造の四角い建物の上に曲面瓦で葺いた二層の屋根が重なり、四隅は赤く塗られています。
この優美な建物は対照的な陰陽の結合を反映し、宇宙の根本思想である太極を具体化しています。そこには高低、風水、天地などの二元が見られます。
煉瓦を敷いた床部分は四角く、地を表します。一方、木造の上部建物はその四面を太陽で飾られています。それぞれの太陽は木製の輪で縁取られ、八方に光を放っているようです。屋根には月に向かって頭を垂れた一対の竜が載っています。学生が門をくぐり、次の知識段階に達するためには、第一段階の徳と才は卓越した文章表現と結びつかなければなりません。この庭を抜ける左右二つの小さな門は左が筆文で、右が蓄文と呼ばれます。筆文は洗練された美しい文を意味します。また、蓄文は含蓄ある表現を意味します。
奎の星座
伝統的な天文学では「奎」は28星座の一つで、「文」の字を形成する16個の星からなっています。東洋哲学ではこの星座は教育や試験を意味します。奎文閣は2010年に行われたハノイ1000年記念祭のシンボルに選ばれました。
第三の庭:石碑庭
奎文閣を過ぎると石碑庭へ進みます。中央はティエン・クアン・ティン(天光井)と呼ばれる四角い池です。池はクエ・バン(奎文)、即ち学問の星座の輝きを放つと同時に、高低、温冷、火水、天地という聖なる対照を映しています。
ここにある82の石碑は科挙が行われた年とその年の博士(進士)号取得者の氏名、出身地が記録されています。博士号は王立学校の卒業証明書ではなく、国王立ち合いの試験の最初の四部門に合格した者に授与されます。全国から集まった学者がこの試験を受けました。博士号取得者1,306人の名前が石碑に刻まれています。実は、受験者2,313人に授与されたのですが、科挙が始まった1442年から1779年までしか記録がないのです。最初の石碑は合格者を記念するためレ・タイン・トン(黎聖宗)王によって1484年に建てられました。それ以後の記録を見ると更に30基の石碑がなくてはならないようです。
池の両側に二列に並んだ石碑の中間には小さな祠があって合格者の栄誉を称える香が焚かれています。最も古い石碑はこの庭に入った右側に建てられています。
1442年合格者を称える最古の石碑を保護するお堂( 1484年建立)
科甲聯題古學宮(合格者の名が刻まれる 学問の宮殿に)
車書共道今天下(天下は車も書も共に同じ道に従う)
石碑の保護
18世紀末、石碑を保護する二層屋根のお堂8棟が破壊され、石碑は散乱してしまいました。1960年代には爆撃の危険から守るため、石碑を砂に埋め、周囲を厚いコンクリートで固めました。
戦後になっても石碑は少しずつ壊れていったのです。コケやカビが成長し、碑文を侵食しました。腐った雨水が異臭を放ち、雑草が侵入して亀の基礎部分は崩壊の危機にありました。むき出しの地面に直接置かれたままになっていたため、石碑は次第にひび割れ、傾き、沈み込んでいきました。
1992年ベトナム遺跡補修センターは石碑を保護するお堂の設計を行いました。これは20年間に及ぶ世界の文化財保護専門家との協議の結果です。18世紀のお堂の確実な図面は残っていなかったので、補修によって過去の複製を作ることはできませんでした。そこで、現存する文廟の建物に調和するお堂を建てようと万全の注意が払われたのです。
1993年から1994年にかけて40人の熟練職人が寸法のぴったり合った石板を選び、曲面タイルを丁寧に敷き詰めながら伝統工法に則って補修工事を実施しました。屋根は鉄木と呼ばれる堅い木材の柱で支えられています。壁はありません。そのため離れた場所からでも石碑を見ることができ、自然光の中で碑文が読めます。石碑はコンクリート基礎の上に亀の頭を地面から離したうえで、元どおりの位置に置かれました。工事費はベトナム文化情報省とアメリカンエキスプレス財団とが折半しました。また、アメリカ・インドシナ和解プロジェクトが管理業務を担当しました。
石碑のてっぺんを飾る三種類の様式はそれが刻まれた時代を反映しています。竜と月は伝統的な儒教と道教の様式に従い、宇宙における陰と陽、即ち天と地の均衡を表します。雲は知識の象徴であり、鳳凰は知性を表します。
15世紀に遡る初期の石碑は中央の小さな月に雲と花を散らしただけの簡素なものです。
16世紀には定型的な様式が採られ、中央の大きな月から周囲に炎を放つように雲が描かれています。石碑のてっぺんにも繊細な花のレリーフが施されています。17世紀後期から18世紀になると竜と月は更に精巧になりました。一対の竜が餌食のような月に向かってまさに飛びかかろうとしています。尾が雲と混ざり合っている竜がいる一方、体全体が描かれているものもあります。また、鳳凰と花は様式化され、雲の中や上部の帯状の装飾に施されています。
第四の庭:賢者庭
賢者庭には入口の大成門に相対して拝堂と大聖殿があります。中には文廟の中心たる孔子の祭壇が置かれています。大成門を通り、庭に進みます。過去を学ぶことと仏教と道教の知識は儒教の要素ですが、ここに一体化し、学者の知識が完成するのです。門を通る時は足元に注意してください。赤と白に塗られた狛犬のような神話の動物が木の扉を支えています。尾は向こう側にあります。脇の小さな門の名前は、儒教の美と価値を世界にあまねく示しています。右側のキム・タイン(金聲)は鐘の最初の音色を、また左側のゴック・チャン(玉震)は最後の反響を思わせます。
拝堂は国王が孔子に供物を捧げ、新たに博士号を授けられた者がひざまずいて拝礼を行ったところです。建物は4列に並んだ各列10本の柱で支えられています。建物の上には月に向かって頭をもたげた一対の竜が飾られています。中央の祭壇は広々としています。祭壇の両脇には亀に乗った鶴が立っていますが、これは天地の結合を象徴するものです。祭壇の上には「萬世師表(師は万世の手本)」と書かれた扁額が掲げられています。これは1888年に作られたもので、中国・康煕帝が曲阜の孔子廟を訪れたときに手書きした文字のコピーです。その右の壁には18世紀ベトナムの偉大な詩人グエン・ズー(阮攸)による「古今日月(孔子の道は日月の如く永遠なり)」の書があります。
拝堂の後ろは大聖殿と呼ばれる神聖な区域で、孔子と孔子を守る四人の高弟:顔子、子思、曽子、孟子の像があります。かつては管理人以外は、たとえ国王といえども入ることはできませんでした。この場所の両側には四科十哲と呼ばれる賢者を祀る石碑があります。四科十哲とは徳行、言語、政治、文学のそれぞれの分野で特に優れた10人のことです。
拝堂と後ろの大聖殿の間に2本の低い石柱がありますが、これはもともと国子監の中にあったようです。柱の上に硯が載っています。拝堂の手前左右に建物があります。元々は孔子の弟子たちの像が祀られていましたが、1947年の爆撃で破壊されてしまいました。1954年に再建されたものの、今では売店や事務所として使われています。左側建物の裏手にはかつて国王事務室、厨房、祭具倉庫がありました。
孔子の弟子たち
孔子には72人の弟子と多くの信奉者がいましたが、次の四人が特に優れた学者とされています。
顔子 - 孔子最愛の弟子であったが、師より先に夭逝した。
子思 - ただ一人の孔子の孫。中庸を著した。
曽子 - 孔子の弟子。深い忠誠心で知られ、孝経を著した。
孟子 - 孔子に次いで最も有名な儒学者。孟子を著した。
ベトナム全国どの寺院でも年ごとの祭礼があり、さまざまな遊び、踊り、吟詠、歌謡、奉納などのイベントが行われます。文廟の祭りは陰暦旧正月にあり、人間将棋や四霊獣の舞、孔子祭壇での奉納儀式が行われます。
第五の庭:国子監
文廟が大学であった頃、教室、学生寮、厨房、教材印刷所がここにありました。
1802年、グエン(阮)朝が興るとフエに遷都しました。同時に大学も移転し、国子監は孔子の両親を祀る神社になりました。カイ・タイン(啓聖)と呼ばれています。当時、地の神を祀る祭壇と役人や守衛の建物があり、庭は寺院を越えて広がっていました。1947年、フランス軍による事故の砲撃でカイ・タインは破壊されてしまいました。
1999年7月から2000年10月にかけて敷地の修復が行われました。主な建材は鉄木やとがった靴先のような屋根瓦と煉瓦です。ベトナムの伝統工法によって1,530㎡の太学堂が建てられました。太学堂は前堂、後堂、左右の建物及び二つの楼から成っています。前堂は会議、講義、式典など文化的な行事を行うところです。また、後堂では文廟-国子監の歴史を展示し、ベトナムにおける儒教教育を紹介するとともに、この場所とベトナム文化の発展に大きく貢献した人々を称えています。左右の建物は今は管理事務所で、小さな図書資料室があります。楼はそれぞれ銅鐘(高さ2.1m、直径0.99m)と太鼓(直径2.01m、重さ700㎏)を納めています。