Ⅰ. ハノイ旧市街へようこそ Nhiệt liệt hoan nghênh
1. 概観 Khái quát
ハノイは西暦1010年、ベトナム(大越国)の首都・タンロン(昇龍)となって以来、歴史の浮き沈みを経ながら、常に経済、社会、文化の中心でした。旧市街は1000年の都ハノイのそのまた中心として、旅行者の皆さんにどうしても訪れていただきたいところです。ハノイの歴史的地区は、1802年にフエへ遷都するまで歴代王朝によって都の置かれたタンロン城、コロニアルスタイルの建築物が残るフレンチ・クォーター、そしてここに紹介する旧市街の大きく三つに分けられます。
旧市街は、タンロン城の東側に位置し、城下町として歴史を刻んできました。宮廷に納める品物を作る職人たちが地方の村落から集まり、36種類の同業組合があったところからそう呼ばれる「36通り」はハノイの典型であり、人々がせわしく行き交う生活風景を見せています。商業の中心であるだけでなく、祭り、文化財、寺社、廟堂など歴史的、文化的財宝に溢れています。同時に、古くからの商店、ウナギの寝床さながらの民家、活気ある町工場が共存し、ハノイ独特の魅惑を醸し出しています。旧市街は歴史的建造物保存の観点から1995年に政府によって指定された区域です。南はホアンキエム湖にほど近いハンボン、ハンガイ、カウゴー、ハントゥンの各通り、東はソンホン(紅河)に平行して走るチャン・ニャット・ズアット通りとチャン・クアン・カイ通りに、北はロンビエン橋にほど近いハンダウ通り、そして西はハノイ駅から北へ向かう鉄道に沿ったフンフン通りに囲まれています。面積は約82ヘクタールで、皇居の3分の2、東京ドームの18杯分に相当します。外周をゆっくり歩いても2時間ほどの狭い区域です。ここに約66,000人が生活していますから、人口密度は約80,000人/㎢となり、東京23区の15,000人/㎢の5倍以上という超過密ぶりです。
通りの多くは、例えば、ハンバック(銀)通り、ハンティエック(錫)通り、ハンドゥオン(砂糖)通りのように「ハン:商品、商店」で始まり、その後ろに手工業品や商品の名前が来ます。ただし、現在ではハンで表される商品が売られている通りは極めて少なくなってしまい、多くは他の商品が売られていますす。また、通りの名前さえ変わってしまったものもあります。一本の通りに同じ商品が並んで売られていられることでも有名です。
ハノイ旧市街では社会の様々な生活場面が同時進行しています。長屋(うなぎの寝床式に間口が狭く、奥に細長い家で、ベトナム語で「管の形の家」と呼ばれていますが、本書では「町家」とします。)は商店であり、卸問屋であり、手工業品の町工場であり、同時に家族の生活場所でもあります。狭くて雑多な町並みではいつでも商いが繰り広げられ、活気に溢れています。旧市街はハノイの最も賑やかなショッピングセンターとも言え、多くの観光客を集めています。中でも小売りやサービス業が目覚ましく発展していることは特筆されます。商店は朝7時か8時から深夜まで開いており、各種の飲食店も軒を連ねています。いわゆる商店がある一方、行商も多く、おこわ、パン、トウモロコシ、ポテト、麺類などローカル色豊かな食べ物を売って歩きます。ですから、旧市街とタンロン王城がハノイを「1000年の都」に作り上げたと言っても過言ではなく、ハノイ人の典型的な生活スタイルを育んできました。ハノイは商業、経済の中心であるだけでなく、伝統祭礼、歴史遺跡など数多くの文化的価値をも創造してきました。いわば、旧市街全体が文化遺産です。
さて、本書でしばしば宗教施設について言及がありますので、ここで整理しておきましょう。
亭(ディン)は、ベトナムのどの町や村にもある重要な公共施設で、その土地の開発者などで功績を挙げた者、土地神、職業神を祀っています。そこはまた共同体の活動や会議を行う場所でもあります。さらに、役所や仲裁所のような機能も持っています。祠または祠堂(デン)は、国または地方の聖人英傑や守護神を祀るところです。若くして死んだ美しい女性など不思議な原因で死んだ人を祀る場合もよく見られます。寺または寺院(チュア)は、仏像を安置した仏教寺院です。
2. 形成と発展 Hình thành và phát triển
(1)14世紀以前の旧市街 Trước thế kỳ 14
はるか大昔、大河ソンホン(紅河)の両岸に定住した人々は徐々に居住地区を広げていきました。中国の支配下にあった5世紀の一時期(454年~456年)、居住地区の一つにトンビン(宋兵)と呼ばれる小さな区域が形成されました。トンビンが今日のハノイへと発展するまでには大規模、広域的で複雑な都市化への過程が見られます。封建時代にハノイは政治の中心となりました。866年、中国の節度使 カオビエン(高駢)がダイラ(大羅)城を拡大しました。しかし、公式にはリ朝の始祖リ・タイ・ト(李太祖)王が80キロほど南にあるホアルー(華閭)からダイラへの遷都を決定した1010年に大越国の首都となったのです。ダイラは更にタンロン(昇竜)と改称されました。11世紀から14世紀にかけてのタンロンは王城区域と市街区域の二つに分かれていました。現在の旧市街は市街区域にあり、役人、軍人、兵士と共に一般人が居住していました。
歴史によると、チャン朝(1225~1400年)時代のタンロンには61の同業組合がありましたが、レ朝(1428~1527年)時代には36へとまとまっていきました。ベトナムの有名な文学者グエンチャイ(1380~1442年)が1438年に著した「輿地志」(地誌)によると、「首都はトゥオンキン(上京)とし、そこにフオンティエン(奉天)府を置く。府にはヴィンスオン(永昌)、クアンドゥク(広徳)の2地区を設け、それぞれの地区に18の同業組合を置く」とあります。同業組合とは、タンロン王城へ納入するためにハノイ近郊の集落から集まった手工業職人たちがその分野毎に各通りに集まって形成した組合です。
(2)15世紀から18世紀にかけての旧市街 Từ thế kỷ 15 đến thế kỷ 18
18世紀末、ファム・ディン・ホーは「雨中随筆」の中で「タンロン城は36の同業組合から成る」と書いています。15世紀以降、王都はチュンドー(中都)府と呼ばれ、ヴィンスオン地区、クアンドゥク地区とその36同業組合を含んでいました。ヴィンスオン地区には商店街が多く、聖人英傑を祀る祠堂や仏教寺院もこの時代に建てられました。15世紀、タンロンは地方からの移住者によって人口が大きく増加しました。農村からの手工業職人たちはそれぞれの製造分野ごとに同業組合を組織しました。組合は職業的要素と住民社会的な要素が組み合わさったものでした。17世紀から19世にかけてはいくつもの市場の間でネットワークが形成されました。居住地区はタンロン城の東側にありましたが、そこに同業組合も集まったのです。
タンロンの人口が急増するにつれ、居住地区と周辺社会との経済的、文化的な交流と対話が促進されました。商店が建ち並ぶ新しい通りが次々と出現し、特定の技能や商品別に同郷者同士の職業共同体が形成されました。そして、これが旧市街の都市建築に大きな影響を与えたのです。家々は土、木、竹で作られ、狭くて長く、あたかもウナギの寝床のような長屋です。それぞれの長屋には作業場や工場があり、店があり、家族の生活場所がありました。このようにしてハノイの人々の生活様式が形成されていったのです。
(3)フランス支配下の旧市街 Dưới khống chế của Pháp
1802年、グエンアイン(阮英)は新王朝の都をフエに定め、それによりハノイは首都としての役割を失いました。タンロン王城は顧みられず、衰退しましたが、フランスがヨーロッパ様式を取り入れるにつれ、旧市街は発展を続けました。19世紀末から20世紀前半にかけて、ハノイの都市構造は次第に濃密になりました。19世紀末、都市全体が拡大しましたが、その後も居住地区の人口が増加し、道路を作るため、ソンホン(紅河)やホアンキエム(還剣)湖に通じる川や池が埋め立てられました。フランス軍がハノイを占領すると、特に旧市街の都市計画が変更されました。道路は改良され、排水、舗装、照明などの設備が建設されました。それまでのベトナム風家屋に加え、ヨーロッパ風のタイル屋根のついたレンガ造りの家々が道の両側に現れ始めました。また、植民地政府によってそれまでまとまりのなかった路上市場が一つにまとめられ、有名なドンスアン市場が生まれました。
(4)1954年から1986年まで、そして現在の旧市街 Từ nam 1954 đến 1986 và hiện tại
1954年はベトナムがフランスとの戦争に勝利し、ジュネーブ協定が結ばれた年です。また、1986年はドイモイ(経済・社会・思想面の刷新)政策が採択された年です。そのおよそ30年間に旧市街の居住地区は大きく変わりました。多くの家族がベトナム北部の軍事拠点から戻り、旧市街に住みつきました。時間と共にそれぞれの家に何世帯も住むようになり、一帯が過密化しました。そこで政府は新たな経済政策を推進し、生活物資を配給所を通じて供給することにしたのです。その結果、主として商業地区だった旧市街は居住地区へと変化し、住民たちも国営企業、協同組合、政府機関などの幹部や従業員となっていきました。しかし、ドイモイ政策によって旧市街の商業活動も徐々に回復し、今やかつてないほどの賑わいを見せています。壊れた家屋は再建され、多くが外観も新しく改築されました。また、祠堂、寺院、亭が改修され、人々の社会・精神生活を支えています。2004年4月5日、旧市街は文化スポーツ観光省により国家歴史記念建造物に登録されました。
(5)ハノイと市場 Hà Nội và chợ
ハノイの形成と発展は市場と密接な関係があります。市場はハノイの初期の段階からありました。11世紀にはリ・タイ・トン(李太宗)王(1028年~1054年)が東部(今のハンブオム)に市場を開きました。多くの店が軒を並べ、賑やかな光景が見られました。17世紀から18世紀には特に旧市街での市場同士のつながりが強化されました。市場は市へ入る門、王城や川への入口など、往来にも商売にも便利な場所に設けられました。さらに、商人たちは三叉路、十字路、空き地などに品物を広げ、通行人に売っていました。国内の商品はもちろん、外国からのものもありました。今日では昔ながらの市場は近代的なショッピングセンターに取って代わられましたが、旧市街を訪れる旅行者はあちこちで賑やかに商いが繰り広げられているのを見ることができます。
(6)通りの変化 Thay đổi cùa Hàng
現在では、売っている商品に因む通りとしては、ハンティエック(錫)通り、ハンバック(銀)通り、ローゼン(鍛冶)通り、ランオン(薬草)通り、ハンマー(紙の冥器)通りぐらいになってしまいました。多くは、他の地方で作られた商品が売られています。例えば、ハンガイ(苧麻)通りでは刺繍や絹製品を、ハンザウ(油)通りやハンベー(いかだ)通りでは衣料品を、ハンブオム(帆)通りではキャンディやケーキをといった調子です。その理由としては、時代と共に生活様式が変わってしまったことが挙げられます。例えば、昔ながらの行李や桶や菅笠などは今や必需品とは言えません。それによって後継者が別の生活手段を選ばざるを得なくなり、本来の商品どおりではなくなってしまったのです。川を埋め立てたり、火事で焼失したりなどの物理的な変化もあります。フランス植民地時代の都市改造も大きいです。内外の観光客の人気スポットとなった旧市街は、それら観光客に合わせた土産物を扱う店やホテル、レストラン、旅行代理店、ミニスーパーなどが増えています。旧市街は、住いと商いと祭りが渾然となった昔ながらの生活風景を色濃くにじませながらも、全体として少しずつ均一化していると言えるでしょう。
(7)将来への課題 Đầu đề hướng tương lai
戦乱の歴史にも拘らず、旧市街はその独自性を維持し、発展させてきました。ここは近代都市の中で保護すべき貴重な遺産です。旧市街は何世紀にも及ぶハノイの歴史と建築様式、そして都市生活を写す鏡でもあります。ですから、内外の観光客を惹きつける魅力がありますが、同時に大きな問題もはらんでいます。例えば、歴史的遺産として特別な風格の古い建物のかたわらに日常生活に困難をきたすほど小さく狭い家屋がそのまま残っており、中には奥行き270cm、幅190cm、高さ120cmしかない家もあります。そのような家では「服を脱ぐ時は跪かなければならない。ズボンを履く時は寝なければならない」と言われるほどです。混雑していて子供の遊び場さえありません。建物の老朽化や居住環境の悪化は切実で、貴重な文化遺産が次第に失われていく問題が指摘されています。
劣悪な交通事情も深刻です。旧市街の狭い道をバイクが我が物顔に走り回り、近年では乗用車も増えてきました。歩行者よりバイク、バイクより乗用車、乗用車よりバスというように「強い者勝ち」の面が見られます。各通りのスピーカーからは「きれいな家、きれいな通り、きれいな首都」というスローガンが流れますが、実際にはビニール袋や食べかすなどが所かまわず捨てられています。下水の臭いもひどいです。ですから、もう二度と来たくないという観光客もいます。いろいろ課題はあり、一朝一夕には解決できないものばかりですが、筆者の独断によって敢えて順序を付けるとすれば、ごみ問題が第一でしょう。住民、観光客双方に環境美化の意識が高まれば、比較的お金をかけないで解決できます。一方、むやみに建物や道路を作り替えたりすれば、旧市街らしさが失われてしまいます。日々姿を変え、新しい社会、新しい文化を創造していく現代都市において、固有の建築様式と文化、社会をそこに住む人々の生活を含めて保存していくことができれば、それこそ旧市街の存在意義をより高めるものと思います。